ジャンゴキャンプの由来、ジャンゴラインハルトってどんな人?

『ジャンゴキャンプ』という名称の由来にはマヌーシュジャズ/ジプシージャズの礎を築いたDjango Reinhardt(ジャンゴ・ラインハルト)というギタリストに由来します。(1910年1月23日–1953年5月16日)

彼はとてもユニークな演奏スタイルで18歳の時に家が家事となり火傷で負傷した左手で、まともに動くのは人差し指と中指だけ(親指も駆使していたといわれています)でギターを弾く奏法で、そのハンデを物ともせず誰もを魅了するメロディー、速いパッセージを弾きこなす世界中でも稀有なギタリストでした。これは当時として、いえ、現代にとっても非常に珍しいギタリストです。

スイング感あふれる演奏で哀愁漂うメロディーが特徴、繊細で感情豊かで、聴く人の心を打つような美しさがあります。ジャンゴ・ラインハルトはジャズ史上に燦燦と輝きを放つ存在となりました。いまでもジャンゴ・ラインハルトの魂を継承するミュージシャンが世界中で活動しています。

彼は第二次世界大戦前後の時代を生きたため、彼の音楽には、時代の苦難と希望が込められていると言われています。彼の音楽は、多くの人々に勇気を与え、希望を灯し続けています。代表曲「Nuages」は1940年にジャンゴ・ラインハルトが作曲した代表的なヒットソングのひとつで第二次世界大戦真っ只中でした。「Nuages」のタイトルはフランス語で「雲」を意味します。この曲は、戦争や人生の困難など、暗い影に覆われた世界を、雲のように漂うような哀愁ある旋律で表現していると考えられています。

他にもたくさんの素晴らしい曲や演奏/録音を残しています。

ジャンゴ・ラインハルトにリスペクトと憧れをもって『ジャンゴキャンプ』という名称をつけました。

ジプシージャズはフランスを中心に栄えた音楽で、当然東側のヨーロッパにも栄えた音楽があります。
それが、バルカン/クレズマーと呼ばれる音楽。
東欧のバルカン半島と、そこに暮らすユダヤ人たちの伝統音楽であるクレズマーは、互いに影響を与え合いながら独自の歴史を刻んできた音楽。

バルカン音楽は、トルコ、ギリシャ、ブルガリア、セルビアなど、多様な民族が暮らすバルカン半島に根付いた音楽です。その特徴は、リズムの複雑さと哀愁漂うメロディーにあります。複雑なリズムパターンは、トルコ音楽の影響が強く、時に激しく、時にゆったりと、その土地の生活や民族の精神性を反映しています。哀愁を帯びたメロディーは、歴史の中で経験した苦難や悲しみを表現していると言われています。代表的な楽器は、バイオリン、リュート、クラリネット、打楽器などです。

私ウッカリンとしては、メロディーやリズムが違っても共通するものを感じるのです。
そこでジャンゴキャンプでは「マヌーシュジャズ」と「バルカン音楽」の2つに焦点をあて知るきっかけ作りと共に日本での認知度をあげていこう!という趣旨のもと、イベントを立ち上げました。

以下、Django Reinhardt(ジャンゴ・ラインハルト)の略歴となります。

Django
Django Reinhardt 1910年1月23日 – 1953年5月16日
ロマ音楽とスウィング・ジャズを融合させたマヌーシュ・ジャズ(又はマヌーシュ・スウィング・ジプシースウィング)の創始者として知られる。また、しばしば「ヨーロッパ初の偉大なジャズ・ミュージシャン」とも評される。後世のミュージシャンに多大な影響を与える多くの傑作を、その短い生涯の中で幾つも発表した。左手のフィンガリングは、メロディを弾く時は主に人差し指と中指で弦を押さえ、コードを弾く時は、曲がったまま麻痺した薬指と小指で高音弦を押さえることもあった。

マヌーシュの旅回り芸人の息子で、パリ郊外のジプシー居住区で育った。12歳でギターを手に入れる。独学で練習、短期間で上達、13歳になる前にアコーディオン奏者の伴奏者としてダンスホールで働き出す。当時のパリで流行していたアコーディオンを中心としたダンス音楽ミュゼットを演奏していた。

1928年11月2日、18歳の時に住まいのキャラヴァン(移動式住宅)が火事に遭ってしまい、左手の薬指と小指の2本が動かなくなってしまう。しかし、ジャンゴは努力を重ね、人差し指と中指だけの独得な運指で流麗なソロを弾けるようになる。ジャンゴが「マヌーシュ・スウィング」を完成させたのは、34年にパリ生まれのジャズ・ヴァイオリン奏者ステファン・グラッペリと組んだフランス・ホット・クラブ五重奏団との演奏だった。
主役の2人をリズム・ギター2本とベースがサポートし、軽快にスウィングするというものであった。 このフランス・ホット・クラブ五重奏団との活動によって、ジャンゴは世界的に名を知られ、フランスを訪問した本場アメリカのジャズ・ミュージシャンが彼との共演を望んだ。

第2次大戦が始まると、グラッペリがロンドンに住むことを選び、ジャンゴはフランスに留まったために、オリジナルの五重奏団は解散するが、ジャンゴはグラッペリの代わりにクラリネット奏者を加えた新しい五重奏団を結成し、活動を続けた。
大戦後の46年にはデューク・エリントンに招かれ渡米し、彼のバンドの客演ソロ奏者として全米各地で演奏を行なう。しかし、ニューヨークのカーネギーホールでの最終公演で、自分の出番に30分も遅刻をするという失態をしてしまい、記者や評論家から良い評価が得られずじまいだった。帰国後はパリ郊外のサモアに住み、演奏活動を続け、時折旧友グラッペリとも共演したが、53年に41歳の若さで急逝した。

written by Ukkalin